役に立ちたいと思うこと
通過儀礼
また いつか どこかで
部活をやってよかったこと
役に立ちたいと思うこと
どこかで読んだ話で、長く入院していたある女性に、その友人が
「一日自由になるとしたら何をしたい?」と尋ねたらしい。 返ってきたことばは、
「旦那さんのシャツにアイロンをかけて、おつまみをつくりたい」だったという。
はっとしてしまった。「一日自由になる」という言葉から、綺麗な景色を見る為の遠出や
美味しいイタリアンを思い浮かべてしまったからだ。
普段あたり前にできることが、ある日を境にできなくなってしまうということ。
もともと器用な人で、ミシンでなんでもつくってしまう義母。85歳を過ぎてだんだんと
できることが少なくなってしまい、最後はトイレとベットの往復がやっとになってしまった。
そんな状況の中、ある時ベットのそばで雑談をしていると、
「もう少し体の調子がよくなったら働きたいと思ってるの。まゆみさんのコンピューターの横で何か手伝えることはないかしら」と言い出した。 どこまで本気でいっているのか…。
驚いて「今やってるのはコンピューターの前でひとりで完結しちゃうような仕事なんですよ」
とあたふた答えるわたし。
なんてバカ正直なつまらないことを言ってしまったのか、と気づいたのはだいぶ後になってからだった。 「そりゃそうよね」と淋しそうに乾いた笑いをする義母。
人は人の役に立ちたいと思っている。自己肯定感が満たされるということもあるだろうし、
人間も社会性動物なので遺伝子に組み込まれた意志ということも考えられる。
ただ体感でいうと、自分が働きかけて人に喜んでもらった時のうれしさは、自分だけの為の喜びとは深度がまったく違うように思う。役に立つことがすべてではないことはもちろんわかっていても、そこを求めてしまうのもまた人間ならではなのかもしれない。
「それじゃあ、今度文字校正のお手伝いをお願いしますね」
どんな返しなら、義母ににっこり笑ってもらうことができたのだろう。
直接伝えることはもう叶わないけれど、今でも時々もっともらしい嘘について
妄想することがあります。
また いつか どこかで
夕飯の支度をしていたら、頭の上の方でジジ、ジジっと音がする。
音のする方に顔を向けて見ると、小さなクワガタのような虫が天井灯の中に入りこんでいた。
虫を触るのはわりと平気なので、まぁよく隙間に入り込んだものだと感心しつつ、
天井灯の形が幅15cm長さが1mと大きいので取り外しが億劫だなぐらいに思った。
取り出すまでの間、電球の熱で灼熱地獄になっても気の毒なので、
灯を消して間接照明だけで料理を作り終える。
食後、意を決して折りたたみ踏み台を引っ張り出し、天井灯のカバーをはずすと、
体長2cmぐらいのコメツキムシのような存在と目があった。
いつ頃からか、妙にまとわりついてくる蝶々や足元にからまってくる枯葉は、
あの世で暇している母か、子供のような存在だった亡き犬のいたずらだと思うようになった。
霊の存在を信じてるわけではないが、乗っとりやすい植物や虫の体をかりて
「ちょっかいを出してくる」というイメージが定着してしまった。
コメツキムシと目が合った時、触覚を上下に揺らしてモジモジしているように見える姿が
長いまつ毛が特徴だった犬と似ていて、なんともかわいらしく思えてしまった。
今回は犬の憑依ということに。
この虫は何度かリビングで遭遇していて、ベランダにリリースしては
また舞い戻って来る輩だった。(同じ個体ではない可能性も大だけど)
今回も紙にそっとくるんでベランダに移動。鉢植えに移動させようとしたその時、
急に虫の動きが鈍くなって、足をピクピクさせ体が硬直してしまった。
「…?」。 寒い夜で急激に冷気にさらしてしまったのがよくなかったのか。
コチコチになった体はあっけなく手許からころげ落ちて、ベコニアの根元に消えてしまった。
一瞬の出来事。自分の手のなかで命が消えてしまった感覚は、なんとも後味が悪かった。
虫も冬眠するわけだから、もし逃すと決めたなら暖かい室内の鉢植えにするべきだった。
後悔しきりでどんよりな夜。
よく朝、やはり気になって殺害現場に行ってみる。
ところが見当をつけた根元にあるはずの遺体が消えている。念のため全部の鉢植えを
かきわけ捜索してみたがない。
まさか。PCの前まで飛んでいき、「虫」「死んだふり」で検索してみると、出るわ出るわ。
「擬死」という項目に、「犬憑依虫」そっくりの写真が沢山載っているではないか。
そうかそうか、そうだったのか。
なかなか見事な演技力にやられてしまった。
体育会系の部活をやっていてよかったと思うこと
限界点は自分が思っているよりもかなり先にある、という事実を知れたことだ。
一人でやっていて「苦しい、もうこれが限界」という気持ちに偽りはない。
しかし部活の練習においては「しんどい状態」からが、本格的な苦しさのスタートライン
だったりする。
肩でゼイゼイ息をしている状態に「はい、もうワンセット」と
涼しいコーチの声が聞こえてくる。
だんだん悪魔のささやきにも慣れてくると、「なるほど、そうきたね」と地獄の中でも
余裕が芽生えてくるようになる。横を見ると滝のような汗をかいて、同じように歯を
くいしばっている顔ばかり。そうやってバームクーヘンの生地のように
精神面と肉体面の耐性の輪を大きくして、やっと限界点を知ることができたのだと思う。
ただいつも頑張らなきゃいけないというわけではなくて、社会人になってから
ここぞという時に「もうちょっとふんばれる」というあと一歩の感覚を持てたことが
大きな収穫だったと思う。
付け加えると、限界の先にさらにもうひとつの階層があるという経験をした人は
どのくらいいるだろうか。
あれは高校2年、校舎での夏合宿の時だった。午前午後と長い練習が終わり、
夕方に地獄の1日をシャワーで洗い流す。くたくたの体をひきずり、3階にある宿坊の教室に帰る時だった。その日はひどく疲れていて、わたしは集団の一番後ろをとぼとぼ歩いていた。
やっと3階のドアの前にたどり着いた時、あるべきものが手元の荷物にないことにはたと気づく。ずばりパンツである。Pを道中落としたらしいのである。頭が真っ白になる。
Pは落し物の中で、一番落としちゃダメやつである。
そして人生最大の危機がやってきた。 遠くから時間差でシャワーを浴びた男バス
(男子バスケットボール部)の談笑する声が校舎にこだましているではないか。
もし、男バスにPを拾われてしまったら、わたしの人生は ジ・エンドである。
振り向きざまにマッハの速さで今来た廊下を猛ダッシュ。
廊下のどん突きの階段を軽々3段ぬかしで飛びおりて、ひたすら下って行く。
ポツンと階段の踊り場に転がっていたブツを発見した時は、天から祝福の光の輪が降り注いでいるかのように輝いて見えた。
しぼりきった限界点のさらに先には「火事場の馬鹿力」という階層がちゃんと存在
している。身を持って証明した「高2の夏」だった。
Copyright 1996 Matsumoto & Hoshino
Copyright 1996 Matsumoto & Hoshino