影法師

もしも、援助交際をしている10代の子と話をする機会があったら、
わたしはどんな言葉かけるだろう。
ときどき犬と共に街を徘徊しながら、いろんな妄想に耽ることがある。

若き日の己の姿を思い浮かべると、
「聖人君子のように」なんて言葉は口がさけてもつかえないが、
ひとつだけ伝えたいと思うことがある。

影法師のような自分の分身の存在だ。
いつも近くで聞き耳をたて、誰も見ていない地道な時間、
努力したこと、逃げなかったこと、ごまかしたこと、
その行いのすべてを記憶している。

そしていざ自分が窮地に立たされた時、
「いいや、わたしなんて」と自らを投げ出してしまうのか、
「大丈夫、まだまだいける」と後押しすることができるのか…。
そのジャッジはじっと傍らで見ていた影法師が下す。

なんだか不気味な存在のようだが、自意識といっていいのか、
自分をずっと見続けている存在はあなどれない、というのが本音なのだ。

自分を少しずつ粗末に扱うことが、長い時間をかけて自分との信頼関係を蝕んでいく。
「自分を好きになれない」「必要以上に過小評価してしまう」。
わずかな“ずれ”が思いがけない場所に自分を運んでしまう。
その無自覚さに気づくのも、身についてしまった感覚を修正するのも容易ではない。

裏をかえせば、最強の味方にも成り得る。
アスリートが「つらい練習を乗り越えてきたので、本番で楽に戦えた」という感覚は、
まさに自分を味方につけて誰も侵すことの出来ないの鎧を身に着けたという事だろう。

過去に何かに逃げず乗り越えた記憶は、必ず血や肉となって、未来を助ける。

長い人生、分身の目から逃れられないのならば、
影法師にはアウェーではなく、ホームのスタンドから見守っていてほしいと思うのだ。


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